労働基準法判例
シンガー・ソーイング・メシーン事件
賃金受け取り放棄の意思表示は有効か。
事件概要
労働者Xさんは事業所Y社に勤務する管理責任者であった。
XさんのY社在籍中、部下の旅費など経費につじつまが合わないことが多数。
また、競合他社への転職模索が発覚するなどした。
そこで、Y社とXさんは話し合いをもち、Xさんの退社時に「いかなる性質の請求権も有しません」という内容の確認書を交わした。
このことによりY社はXさんへ退職金の支払をしなかった。
これに対しXさんは確認書の意思表示は錯誤(民法上で勘違い)であり無効。
賃金全額払いの原則通り、Y社は退職金を支払うべきとして訴えた事例。
- 本件退職金は、就業規則においてその支給条件が予め明確に規定され、被上告会社が当然にその支払義務を負うものというべきであるから、労働基準法の「労働の対償」としての賃金に該当し、したがって、その支払については、賃金全額払の原則が適用されるものと解するのが相当である。
- 全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活をおびやかすことのないようにしてその保護をはかろうとするものというべきである。
- 労働者たる上告人が退職に際しみずから賃金に該当する本件退職金債権を放棄する旨の意思表示をした場合に、全額払の原則が(退職金債権を放棄する)意思表示の効力を否定する趣旨のものであるとまで解することはできない。
- (退職金債権を放棄する)意思表示がXの自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在していたものということができるから、右意思表示の効力は、これを肯定して差支えないというべきである。
民法を学んだことがある方は「意思表示」と「錯誤」については知っていると思いますが、労働基準法だけを学んでいる方にとっては概要と判旨だけを読んでもよく分からないと思いますので、詳しく解説します。
法律用語において意思表示とは、一定の法律効果をもたらす行為を指します。
この事例では賃金債権放棄がこれにあたります。
しかし意思表示は、それがなされれば法律効果が無条件で生じるわけではありません。
脅されたり(脅迫)嘘を言ったり(虚偽表示)などの場合、効力を生じない場合があります。これを「瑕疵のある意思表示」と言います。瑕疵とはキズのことです。つまりピカピカの意思表示であれば問題ないのですが、キズが入った意思表示はちょっと待ったという事ですね。
この「瑕疵ある意思表示」の一つが「錯誤」なのです。
これは気持ちとは違った意思表示をしたという事です。
Xさんはこれを主張したわけです。
債権放棄の意思表示はしたものの、
「あの時の約束は退職金を放棄するつもりで言ったわけじゃない。」
だから、退職金放棄は意思表示には含まれていない。
法24条の規定通り退職金を支払えってことですね。
これに対して判決では、退職金を賃金として法24条の効力を認めつつ、この条文を根拠に意思表示の効力を否定出来ないとしています。
かみ砕くと、全額払いの規定が労働基準法で定められていても、労働者からの債券放棄の意思表示は効果があります、って事です。
しかし、弱い立場の労働者が会社に言われて賃金債権放棄を強要されたとしたら・・・。
労働者にとってかなり酷な事です。
したがって、判決では賃金債権放棄の意思表示が有効とされるための要件として「労働者の自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在していた」事を要求したわけです。
本件では客観的な事実からこの要件を満たすとされ、Xさんの主張は認められませんでした。
この判決では他に退職金が「労働の対償」である賃金に該当する事。
賃金全額払いの原則が定められている趣旨が説明されています。
これらの事も試験で良く問われている事項なのでしっかりと押さえておきましょう。